長崎原爆と浦上天主堂

米国による原爆投下の真実

約15,000人の信徒のうち約10,000人が亡くなった長崎浦上地区

第二次大戦で、わが国は世界で唯一の被爆国となった。

それも、広島、長崎と二発の原子爆弾によって未曾有の被害を受けたのである。“ 原爆 ” と云えば何故か広島ばかりが注目を集めることを不思議に思ったことがないであろうか。拙過去ログでも触れたことがあるが、米国は長崎への原子爆弾投下を隠したい事実があったのである。

浦上は長崎市の北部の地域で、17世紀から19世紀における潜伏キリシタンの中心地として現代には原子爆弾の被害を受けた中心地として知られている。

歴史上、初めて浦上という名前が出現したのは15世紀。16世紀には全村がキリシタンと云われていた。17世紀に入り、キリスト教の禁教令が出たのちも、約250年間にわたり信仰を守り通した。

・ベアトス様の墓

・江戸時代の殉教者

・ジワンノ(夫)

・ジワンナ(妻)

・ミギル(男の子)の墓

19世紀後半になり、禁教令が廃止され、信徒は礼拝の中心地を建設する。これが浦上教会(現在は浦上天主堂)である。

浦上天主堂は1895年に建設を開始。1914年に完成。その後、双塔を1925年に完成させた。当時東洋一の壮大さを誇った天主堂であった。

・被爆前の浦上天主堂

・被爆前の浦上天主堂での信徒

原爆被爆

1945年8月9日 長崎市松山町の約500m上空で、原子爆弾が炸裂した。一説によると、当時この地区には約15,000人の信者が住んでおり、そのうち10,000人あまりが亡くなったと云われている。

・被爆前の爆心地周辺 ‐ 浦上天主堂は画面右上に写っている

被爆後の爆心地周辺 ‐ 一部の鉄筋コンクリート造の建物を除き全壊・全焼した浦上天主堂の被爆。

浦上天主堂は爆心地から約500mの位置している。この日は、聖母被昇天の大祝日の準備の赦しの秘跡のために主任司祭西田三郎師は聖堂に入ろうとし、助任司祭玉屋房吉師は告解場に入っていた。

原爆により、2人の神父と堂内にいた数十人の信者たちは即死したと云われる。

・被爆約2か月後の浦上天主堂全景

・浦上天主堂正面

・浦上天主堂の北側の鐘楼ドーム 約50トンと推定されている鐘楼は爆風の影響で天主堂外に崩れ落ちた

・原子爆弾による熱線で変色しているヨハネ像


・被爆後、アメリカ軍が原子爆弾の威力を調査する際に撮影された映像

・浦上天主堂近くのキリシタン墓地 ‐ 亡くなった日付から原爆により亡くなった人の墓であると思われる

・浦上天主堂近くのキリシタン墓地 ‐ この一家は原爆により8名の家族を失った

復興への足音

原子爆弾により浦上天主堂は大きく損壊したが、非常に思いいれのあるこの場所に仮聖堂を立てることが信者の念願だった。

1946年12月1日に仮聖堂は建設が完了した。爆心地付近の公共施設のうち、最初に再建されたものだった。

・1945年の秋の浦上天主堂付近 ‐ 少しずつ家が立ちはじめている

・浦上天主堂の仮聖堂建設のため、労働奉仕をする信者

・完成した仮聖堂(左)と浦上天主堂の遺構(右)

現代の浦上天主堂

1946年に完成した仮聖堂も復興に伴い手狭となり、1959年に浦上天主堂が再建された。

現在、浦上天主堂に被爆の跡を物語るものは、わずかしかないが、生き残った多くの人々に、今も癒えない心の傷が残っている。

そしてこの真実こそが、米国が世界中のクリスチャンに知られることを恐れた真実である。

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